■カワラヒワ


とりあえず、僕は君に触れてみようと思った。
とりあえずとは言ったものの、なんだかそれはひどく難しそうな気がした。対象となるべき君はすぐ近くに、僕と並んでベッドのふちに腰掛けているはずなのに、なかなか僕の手は動いてくれなくて、ぎこちなく床を眺めている君を横目で見ながら僕は感づかれないように腕を肩に回そうとした。不自然にかかった体重でベッドがきしんだりして、君がこっちを向いたら僕はもうそこから動けなくなる。そう思ったので、とにかくゆっくりとゆっくりと、不器用に糸で操られているように腕を伸ばした。薄い水色のぴんと張ったシーツが、僕と君の間に溝を作るようにしわになってゆくのが目に入った。
君は肩掛けかばんをベッドの脇に置いて、肩ひもを両手でぎゅっと握っていた。緊張しているのか、なにかに覚悟を決めようとしているのか、君の視線はかばんのバックルにただ向かっているように見えた。いや、もしかしたらその隣にとめてあった小さな黒猫のブローチを、君は見つめていたのかもしれない。
「お気に入りなんだ、いいでしょ」
と、待ち合わせ場所で会うなり僕にかばんを掲げてそれを見せてから、まだ数時間しか経っていない。
そんなことを思い出しているうち、僕の右手は君の右肩に達しようとしていた。開くでも握るでもないあいまいなかたちで、僕の拳は少し震えていた。あまりにゆっくりと動かしすぎて腕が痛くなってきてしまったのだ。おまけに腕を伸ばしたはいいものの、そこから僕はこの右手をどうしていいのかが分からなくなっていた。
右肩をぐっと掴んで君の体ごと引き寄せればいいのか、右肩をそっと引っ張って君を背中から抱え込むようにして抱きしめたらいいのか、それとも右手を下敷きにする感じでそのままベッドに引き倒してしまえばいいのか。せめて気づかれることを覚悟で、君の目の前を通して左手を伸ばして、一気に右肩を攻略してしまえばよかったのかとさえ思った。そうすれば、僕のほうに抱き寄せてキスするなりなんなり、どうとでもできただろう。
しかし、現実のところ、今僕の右手は君の右肩の上で悲鳴を上げている。もういっそ、このまま勢いに任せて君に覆い被さってしまおうか。けれど最初だし、あんまり乱暴なことをしたらこれっきり嫌われてしまうかもしれない。頬を張られて君は部屋を出て行ってしまうかもしれない。できることなら君を僕の好きにしたいけれど、嫌われるのはなによりも怖い、と僕は思った。僕はなんとか震えを静め、今度こそ、優しく君の肩に手のひらをかけようとした、
瞬間。
「ねぇ、あっち、向いて」
君が初めて口を開いた。僕は慌てて手を引っ込め、君の顔を見た。君はうつむいたままで、僕たちのまっすぐ前にあるガラス窓を指差していた。僕の想像が正しければあのガラスの向こうにはバスルームがあるはずだけれど、それは黙っていた。
僕はうなずき、君から目を外して大きなガラス面の、さらに向こうにある妙な形のイスに目をやった。あれが世に言うアレか、とその名前が思い浮かんだのと同時に、僕の右頬に柔らかいものが触れた。


060428

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