■ walk around a circle, without reason/めぐりゆくみずのように


静かに、本当に静かに揺れる川面を見ていた。車の窓ガラスに額をつけて見ていたときには水が流れていることすら気付かないほどだった。僕は自分が小さな人形になって、無駄によくできたジオラマの中に放り込まれたような錯覚を覚えた。それくらい水は静かだった。
「これでもさ、」
車にキーをかけてきた彼女が言う。小さな軽自動車は周りの山々に染められたように真っ赤だ。免許を取ったばかりの女の子の車らしく、脇に擦り傷がいくつかある赤い車。
「毎秒何トンってくらいの流量があるんだよね。底の摩擦係数はどうなってるのかな。越流水深どれくらいだろうね」
なんとなく僕は、自分の言いたいことを水理学に翻訳されたような気がして嬉しくなった。彼女の問いかけには答えずに口を開く。
「かわ、とか、みず、ってひらがなで言ってごらん?」
「かわ」
「みず。……はい」
「うん。頭の中に漢字出てきた?」
彼女は不思議そうな顔をして僕のほうを見た。
「そりゃぁね。小学一年生で習う、縦三本線の『川』と簡単な『水』よ」
「やっぱり同じにはならないかぁ。残念」
さらに不思議そうに眉を寄せて、彼女は僕に聞く。
「どういうこと?」
「あのさ。俺の小学校から歩いて10分くらいのところに、石狩川があったんだよ。ちょうど下流部の。子供の俺からしたら向こう岸までがすっげぇ遠くて、黄河ってこんなもんなのかなぁって思ったりもした」
僕は目を閉じて、十年以上前の記憶を必死に辿ろうとした。ほんの微かな潮の匂い、水際の護岸のコンクリートの手触り、膝に穴が開いた制服のズボン、テグス、ハリス止め、ミミズ。竿代わりにしていたカワヤナギの枝はなかなか折れない。そこまで行き着いたとき、ねぇ、という彼女の声がした。ねぇ、それで? ああごめん。続けるよ。
「俺にとって、大河の『河』とさ、河川の『川』の違いがそこなんだよ。流れが見えるか見えないか。濁ってるか濁ってないか。他の人にはどうでもいいかも知れないけど、そこは譲れないんだ。問題はね、 」
一息ついて僕は続けた。
「問題は、このかわがこんなにも静かなのに、こんなにも澄んでいるってことなんだ。俺はこれをなんて呼んだらいいんだろう。さっきからそればっかり考えてる」
視線を水面から手元に戻す。僕らが体を預けている駐車場の仕切りは色あせ、赤がほとんど剥がれ落ちてしまっている。これだって、気の遠くなるくらい昔からここにあったんだろう。たとえここに流れている水とは比べ物にならなくても。
すると突然、彼女は柵に飛び乗り、バランスを取りながら僕へ向かってその上を渡り出した。時たま、強く吹く風に煽られるスカートを押さえながら。そのまま真剣な顔をして言った。
「……あなたの、好きなように呼べばいいのよ。あなたは川が好き? それとも河が好き? どっちか決められなきゃ、そうね、一級河川とでもしておけばいいんだわ」
実に明瞭な答えだった。僕は笑い出したくなるのをこらえて大真面目に言い返した。
「じゃあ俺は、流量のわりに沈殿物の少ない水質に感動したので、これを川と呼ぶことにするよ。多分それで合ってるはずだからさ」
ぴょん、と彼女は飛び降りる。なんでもない笑顔がそこにあった。
「いいんじゃないかな。それよりさ、競争しようよ。葉っぱで」
言うが早いか彼女は落ちているイチョウの葉を僕に渡し、既に拾っていたらしいカエデの葉を僕の目の前に突きつけた。
「私が赤、あなたが黄色。一緒に川に落として、早くあそこの水門まで着いたほうの勝ちよ」
反論を許さない強い口調。また始まったかと思いながら、僕は黙って川岸まで駆けてゆく彼女の後を追った。どうせ従っていたほうが楽しいに決まっているのだ。指先でつまんだイチョウをくるくる回しながら、高い空に掲げてみる。一瞬光を弾いたかに見えた黄色い羽は、すぐに輝きを失って切れ込みの入った逆三角形に戻った。
天には光、地に花開く。そして花は枯れ、葉は色づき、そして落ちる。全てはあの川の水と同じだ。どこまでもどこまでも巡ってゆく。いつかは僕もその輪廻の中に飲み込まれることになるだろう。願わくばそれまでの間、どうか幸せな人と楽しくあれますように。山や川に向け、いつものように幸せすぎる未来を呟いた。これが僕の信仰だ。
「――おーい、何やってんのー! 早くー!」
ああ、立ち止まっていたのか。今行くー、と返事をし、僕はすっかり秋色に染まった山と空の境を見上げた。きっとあそこに辿り着いてみせる。何度巡ったとしてもね。


お題:「私と河と秋の女の子」 from「病弱な花々」後藤あきらさんより。ありがとうございました。


041126

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