■パンゲア


僕らは海に来ていた。
サンダルの下では柔らかく細かい砂がいくらか体を沈め、足指の隙間に入り込んでくるのが分かった。続く波打ち際の向こう側にはぼんやりと堤防が霞み、その行き止まりには赤い灯台が立っていた。僕が覗いた単眼鏡のレンズには、灯台の下で釣り人を垂れる幾人かのひとの姿が見えた。この時期ならサビキでアジ狙いだろう。いずれにせよ平日の昼間からこんなところに来ているのは、暇な大学生を除けば定年を迎えた近所の老人くらいだ。心なしか背中が曲がっているようだった。
沖のテトラポッドと低い波と、すぐに深くなる海。砂と砂利と流木と、流れ着いたゴミ。少し離れた丘陵地には風力発電用の大きな風車が何機か立ち並び、その下ではハマボウフウが砂を覆い尽くすように咲いている。北を向けば、遠い雲の向こうにそびえる鳥海山がかすかに見えた。これがこの場所の全てだった。特殊なものは何もない。海水浴場に比べれば穴場的な場所とは言え、休日になれば水上スキーの若者たちも集まるし、夕方になればキス狙いの釣り人も浜へ降りてくる。何の変哲もない、寂れた砂浜だ。それ以上特に取り立てて言うべきことはないように思う。


僕ら、と最初に言ったけれど、別にひとりで来たって構わないのだと僕は思った。今日はたまたま女の子が二人一緒について来ていて、そしてその子たちは早々に僕に荷物を持たせて浜辺へと駆け出している。どんな表情をしているかとか、スカートの裾が濡れたりしないだろうかとか、普段の僕なら心配しそうな事柄が、今の僕には不思議とどうでもよく感じられてならなかった。僕はいつものように木切れを集め、防風林から飛んできたのであろう杉の葉に火を付けた。煙草は吸わないけれど、いつもどこかのポケットにマッチが入っている。いつの頃からかそういうことになっていた。そのほうがいいということに気付いたからだろう。僕は焚き火にとって火付けであり、火を絶やさないようにするために必要不可欠な部品なのだ。だんだんと大きくなる炎を見ながらそんなことを考えていると、次第に考えは世界の歯車やネジのことにまで連なってゆく。ハマボウフウの花にとまっているナナホシテントウも、僕の素足の下できしきしと軋む砂の粒も、僕が生きる世界の部品のひとつのような気がしてきた。そして僕はその中心にいるはずなのに、何ひとつ感じることができないでいる。ただ頬が炎に煽られ、熱い――
ぱちんと爆ぜる音がして、僕は反射的に身を翻した。右の瞼の横を黒いものが掠めて行くのが感じられた。大方竹でもくべてしまったのだろう。自分の責任であることも棚に上げて、僕は軽く舌打ちをする。してしまった後で、慌てて彼女らに聞かれていないか辺りを素早く見回すと、目の端につまづいて頭から塩水に突っ込むひとりの姿が映った。僕はため息もつかずに焚き火を大きくし、持ってきた荷物の中からタオルを取り出した。体が冷めないうちに引き上げるのが得策、と冷静な僕の教科書には書いてある。そして僕はその通りに体を動かし、彼女らは僕を用意のいい奴だと思うだろう。それでいい。
たとえ僕がだらしのない男だったとしても、面倒見が良くてよく手の回る一面があるという事実は変わりようのないことだ。どれだけ自己分析を繰り返してもひと言で言い表せない自分や他人のことを、必要のないものとして片付けてしまうことは簡単だ。しかしそれは存在している以上、途方もない重さで僕にのしかかってくる。事実。世界。僕はこういう人間で、彼女はこういう人間で。そして僕が紐解こうとしている世界は、そういった全ての部品が組み上げられて出来ているということ。
もう一度考えよう。ハマボウフウの花にとまっているナナホシテントウも、僕の素足の下できしきしと軋む砂の粒も、僕が生きる世界の部品のひとつだということを。欠けていいものなんて何ひとつないはずなのに、僕は僕が生きるこの世界で自分そのものを見失いかけている。焚き火の火と濡れる予定のタオルが揺れる。ポケットのマッチ箱の角が、僕を海辺へと引き戻してくれたような気がした。
近づいてくる足音に僕は顔を上げ、はにかむ彼女にタオルを放り投げた。後ろではもうひとりがやれやれと言った表情で、髪から滴り落ちる滴を見つめているようだった。僕は二人のシルエット越しに、沈みゆく夕陽を見ようとした。凪の水平線に沈もうとする一直線の光の橋はこちらを真っ直ぐに指していた。太陽が隠れる前にこの橋を渡りきれば、ばらばらになった世界も元の姿に戻ることができる。そんな確信にも似た予感が僕をとても強く襲ったけれど、僕の足は動いてはくれなかった。

僕らは海に来ていた。空が桔梗色に染まるまで、二人が退屈そうに浜辺の石を拾い始めても、僕はずっと水平線を眺めていた。僕だけが水平線を見つめていた。


050729

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