■Princess, not more


時おり、昔のことを思い出す。たぐってもたぐっても終わりの見えない毛玉のような記憶もあれば、あるひとつのことしか思い出せないひとのこともある。これは、数ある記憶のうちのほんのひとつ、ある男の子のことだ。

小中一貫の学校に通っていた80人にとって、中学校から新しく入学してくるひとたちというのは文字通りの新たな風だった。6年間も同じバスに揺られ、ふたつのクラスで過ごしていれば、嫌でも全員と顔見知りになる。4月、新たな40人を加えて、僕たちは牧場の隣にある学校で中学一年生になった。向かいにはつい先月まで通っていた小学校があるけれど、一階分高い中学校の校舎に身を置いているだけで、なんだかずいぶんと大人になったような気がしていた。
彼と出会ったのはそんな新しいクラスでだった。変わり者が多かった僕たちの中でも、彼はひときわ奇妙な雰囲気をかもし出していた。同級生を男女構わず「さん」付けで呼び、僕たちには常に敬語で話した。今思えば彼も中学受験を切り抜けて来た身だ、親御さんの教育がよほどしっかりしていたのかも知れない。言葉遣いだけでなく、身のこなしもどこかぴしりとしていて、なにか大きなものに律されているような、そんな印象を受けた。
そして、彼の雰囲気をさらに際立たせていたのが名前だった。先生ですらその名前を読むことができず、誰もが授業のはじめに必ず出席簿を開いた。初めてその名前を聞いた、自己紹介のことを今でも覚えている。
「トモアです」
クラスのほぼ全員が彼のほうを向いたと思う。彼はそれに気づき、もう一度ゆっくりと自分の名前を口にした。
「トモアといいます、よろしくお願いします」
トモア、というのは彼の下の名前で、確か漢字で知愛、と書いたと思う。加えて苗字にも姫という字が入っていたから、僕は知りえない感情を目の前に突きつけられたように、名簿の名前を見つめていた。僕の下の名前もあまりない名前だけれど、彼の名の前ではどんな苗字もどんな名前もかすんでしまうような気がした。姫とか愛とか、そんな言葉は僕とは全く別世界のものだったのだ。

彼から僕に話しかけてきたと記憶している。
「サトウさん」
こんな技知ってますか、とどこかぎこちなく彼は言った。技? 僕が聞き返すと、彼はデトロイトスタイルのような構えを取り、右腕を振った。次の瞬間僕の左の二の腕に鋭い痛みが走った。
「いてっ、なにすんのさ」
「今のが『甲虫』です」
「かぶとむし?」
彼はええ、と頷き、半端に握った拳を僕に見せた。全ての指を第二関節で曲げ、さらに拳を固めずに手首のスナップで打つと驚くほど痛いのだと言う。
「まぁ、痛いだけですから大丈夫です。骨とかに異常はありません」
彼は大真面目にそう言った。僕は妙におかしくなって、トモアと一緒に手首の振りを研究し始めた。
僕がトモアー、と言い、彼がなんですかサトウさん、と返す。それはどんな感情だっただろう。トモアの濃い目のまつ毛と白い頬をよく覚えている。

中学二年に上がるとき、トモアは親の仕事の都合とかで転校して行った。そのときに恐らく札幌も離れたはずだ。北海道から出たことのなかった僕は、漠然と東京に行くんだな、と思って彼を終業式で見送った。それきりトモアには会っていない。トモアがどこでなにをしているかも全く知らない。
元気でいれば、今頃僕と同じ22歳だ。もし会えることがあったら、今度は僕のほうから彼に声をかけてやろうと思っている。
「トモアさん、こんな技知ってますか?」
10年越しの甲虫はきっと、昔の何倍も痛いぜ。

06.1.31.Tue

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