朝が来るのが早すぎる


ノックの音であたしはまぶたを開いた。
「さーわー、もう時間よ、パン焼けてるから上がってきなさい」
お母さんの声がする。のそりと体を起こして、枕元の目覚ましを引っつかんだ。鳴らないこいつにもやもやをぶつけようかとも思ったけれど、そんなことをしても何の解決にもならないわ、と考えてやめた。今の頭でもそのくらいの思考はできるみたいだった。
あたしは朝が弱い。お母さんが低血圧でお父さんが高血圧だから、娘のあたしはちょうどよくてもいいと思うのだけれど、どうもお母さんの血のほうが強いらしい。夢見が悪かったり、少し夜更かしをするとすぐに寝過ごしてしまう。今日がいい例だ。あたしは頭の後ろで絡まった細い髪を手櫛でときながら、居間に通じる階段を上がった。
テーブルの上のお皿にはトーストと目玉焼きがあった。あたしは目玉焼きをつまんでトーストに重ね、塩コショウを振ってそのままかぶりつく。世に言うパズー食いだ。さすがにちゅるり、とはやらないけれど、随分前からあたしの朝ごはんはこれだった。お母さんが紅茶を入れたカップをふたつ、お盆に載せて運んできた。

「お母さん、あたしね、昨日の夜夢見たんだ」
「へぇ、どんな?」
ことり、とあたしの前にカップが置かれる。砂糖を小さじで二杯入れて口をつけた。
「んーと、よく覚えてないんだけど、あたし夢の中で男の子になってたの。
雨が降ってたわ。あたし誰かと待ち合わせしてて、待ち合わせの場所まで急いで走ってたの。玄関出てすぐに傘忘れたことに気付いたんだけど、取りに戻ってたら遅れちゃうと思ってそのまま走った。誰と、どんな用事で待ち合わせてたかはわかんないのよ。ただ急がなくちゃ、遅れちゃいけないって思って走ってたの」
お母さんは窓際のオリヅルランの鉢を見ながら、あたしの話に耳を傾けている。知ってるんだ、お母さんが真剣に相手の話を聞いているときは目を合わさないってこと。あたしは続けた。
「走ってるうちに道路のアスファルトが切れて、砂利道になった。あたしが履いてたのは底のゴムの薄いスニーカーだったからすぐに足の裏が痛くなったけど、とにかく遅れちゃいけなかったの。
雨はそのうちにもっとひどくなって、服はもうびしょびしょ。男の子だったし気にしなかったけど。あと前髪を伝って雨水が目に入るから、あたし何度も目を拭わなくちゃいけなかった。なんか泣いてるみたいだな、って思ったのを覚えてる。そしたら、別に悲しくなんてないはずなのに、あたしったら走りながらほんとに泣いちゃったの。あたしどこに行きたいんだろう、誰があたしのこと待ってるんだろう、って、怖くなって」
あたしはいったん話を止めて残りのトーストをほおばり、しばらくむしゃむしゃとやった。少しコショウが効きすぎていて目に涙がにじんだ。あたしは鼻をかむ振りをして目をこすり、少し温くなった紅茶を一気に飲み干した。お母さんの視線は窓の外に移っていた。
「雨、止まないね」
お母さんが言った。そして、続けて? とあたしのほうを見た。あたしはうん、とうなずいて、まだ微かに残る記憶を辿った。
「……道がだんだん上り坂になっていってね、あたし疲れてきた。でももう少しなんだ、って思って、少しスピードをゆっくりにしたの。それでしばらく歩いてたら、坂のカーブの向こうに古いバス停が見えた。相変わらず雨は強かったし、そこでひと休みしようかなって、あたし走った。そしたらね、バス停のベンチに誰かが座ってるのが見えたの。こっちに手を振ってる。あたしはそれが誰だか分からなかったけれど、向こうにはあたしのことが分かるみたいで、あぁ、あれが待ち合わせしてたひとなんだなって思って」
「……思って?」
「うん、それでおしまい」
「おしまい?」
お母さんが不思議そうに聞く。
「さわはそのひとに会えなかったの?」
「だって目が覚めちゃったんだもん。お母さんが起こすからだよ」
「起こすからって、さわ、あなたが昨日起こしてって私に言ったんじゃない……」
そうなのだけれど。でも、夢の続きというものは滅多なことでは見ることができないものなのだ。ましてや一度体を起こしてしまった後では。あたしはもう二度と、あの待ち人に会うことができないと思う。もう二度と。

「……さわ、聞いてる?」
お母さんがあたしを小突く。
「聞いてるよ。もう時間だからあたし行くね、ごちそうさま」
あたしは空になった食器を台所に下げ、ドアをひとつ抜けて洗面台で頭を洗った。シャンプーが目に入らないようにしっかりとまぶたを閉じる。暗闇の中で浮かぶ景色はあのバス停だった。誰かがまだそこで待っているような気がした。どうして今日も朝が来てしまったんだろう。こうして毎日、きっと世界のどこかで待ち人に会えなかったひとたちが朝日を呪っているんだわ。そして頭や顔を洗ったりひげを剃ったりしながら、朝が来るのが早すぎる、って文句を言っているのに違いない。誰に届く訳でもない密かな呟きを。
髪の毛の水を絞って、タオルで乱暴に拭く。あたしのはせいぜい耳が隠れるくらいの長さだし、乾くまでにあまり時間はかからない。あたしは身支度の段取りを頭の中で進めながら思った。そうだ、玄関を出るときは、忘れずに傘を持ってゆこう。待ち人にどうか会えますように。


050401

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